TOSENの歩み

モノづくりの、物語。

“洗濯機械”の歴史とともに約100年。
東京洗染機械製作所の歩みには、いつの時代にも「挑戦」があります。
※参考文献:『にっぽんクリーニング界のトップたち』(太陽出版社/1973年)

1924

大正13年

三科政治が、東京都中野区に三科製作所を設立。

「人のいるところ衣あり、衣あるところ洗濯あり」

東京洗染機械製作所の創業者・三科政治は、三科製作所を設立する前は台湾にある製糖会社の工場に勤務。少年時代から得意としていた数学や物理の知識を武器に、技術者として工作機械の設計に励んでいた。転機が訪れたのは、1921(大正10)年。日本にいる兄から届いた1通の手紙がきっかけだった。「日本で、洗濯機械をつくってみないか?」――。政治は、初めて目にした“洗濯機械”という言葉に衝撃を受ける。当時は、明治中期にヨーロッパから伝来した「洗濯板」が西洋洗濯法としてようやく一般家庭に普及し始めた時代。1914(大正3)年に日本初のクリーニング機械が誕生していたものの、洗濯を機械が行うなど、庶民にとっては“夢のまた夢”であった。しかし、政治は「人のいるところ衣あり、衣あるところ洗濯あり。国民生活の向上にしたがい、洗濯の需要はますます増えていくだろう。今まで人の手で洗っていた衣類を機械が洗う。洗濯を工業化して、後世の人のために道をひらくことこそが、天が俺に与えてくれた仕事だ」と一念発起。重役や上司の引き止めにも耳をかさず、会社を退社して日本へと帰国した。ちなみに、政治が三科製作所を設立した1924年は、1920年の戦後恐慌に追い打ちをかけるように起きた関東大震災(1923年9月)の影響で、先の見えない不安が日本を覆っていた時期。“洗濯機械”という未知の言葉に魅せられて帰国したひとりの技術者の“挑戦”が、日本の業務用洗濯機械の歴史を大きく変えることなど、このときはまだ、誰も知る由はない。

東京洗染機械製作所の創業者・三科政治

東京洗染機械製作所の創業者・三科政治

1934

昭和9年

三科製作所を閉鎖し、渋谷区中通りに東京製作所を開業。

瞬く間に大手洗濯機械メーカーへと成長。
ところが・・・。

三科製作所を設立して以降、政治は工場長としてその手腕を存分に発揮。ドライスチーム発生の卓上ボイラーから手回しカラーロール、ドライタンブラーなど、つぎつぎと新しい洗濯機械を発明し、業界に紹介していった。なかでも石油系ドライの三科式清浄循環装置(国産初の循環装置)は、当時のドライクリーニング業者のほとんどが使用するほど絶大な信用を獲得。軍備拡張時代の1932(昭和7)年〜1933(昭和8)年頃には海軍の仕事を一手に引き受け、『陸奥』『最上』『大鳳』『金剛』をはじめとする帝国海軍の軍艦に三科製作所の洗濯設備が設置されるなど、わずか10年足らずで大手洗濯機械メーカーへと成長した。しかし、仕事量が増えるにつれて売掛金も増え、資金繰りが悪化。高利の借金も災いし、1934年、三科製作所は仕事も利潤もあったにもかかわらず、閉鎖を余儀なくされる。それでも政治は、天職とまで思った洗濯機械づくりの夢を諦めきれず、知人から資本を借りて渋谷区中通りに東京製作所を設立した。工場はわずか18坪。三科製作所時代の借金の返済にも追われ、工場内の破れた障子を張り替えることさえままならないような状態からの再スタートであったが、洗濯機械づくりに賭ける情熱の炎は、決して色あせることなく、政治の心のなかで赤々と燃え続けていた。

大日本帝国海軍の戦艦『陸奥』。日本の力の象徴として国民に愛されたこの戦艦にも、三科製作所の洗濯設備が設置された

資料提供:大和ミュージアム
大日本帝国海軍の戦艦『陸奥』。日本の力の象徴として国民に愛されたこの戦艦にも、三科製作所の洗濯設備が設置された

1939

昭和14年

社名を東京洗染機械製作所に変更し、目黒区上目黒に新工場を建設。

信頼と応援を糧に。
いよいよ東洗の歴史がスタート。

東京製作所を設立したあとも、政治は一心不乱に洗濯機械づくりに没頭。その支えとなったのは、政治を信頼し、応援してくれるお客さまの存在だった。それを物語るのが、日本のクリーニング業界大手・株式会社白洋舎(1906年創業)の五十嵐丈夫社長(当時)とのエピソードである。「三科君が事業を始めたと聞いたので、早速来たんだ」。開業間もない東京製作所を訪れた五十嵐氏は、そう語ると、その場で洗濯機を3台発注。さらに、破れた障子を横目で確認し、こう付け加えた。「見積書は一切不要。納品書で代金の支払いをしよう。すぐ着手してくれたまえ」――。五十嵐氏の帰り際、その後ろ姿を見送る政治の顔は、涙でくしゃくしゃだったという。自分を信頼してくれる人がいる。応援してくれる人がいる。このことが、政治の技術者魂をいかに奮い立たせたかは想像に難くない。事実、その後の政治は約4年で借金をすべて返済、1939年には社名を東京洗染機械製作所に変更し、当初(渋谷区中通り)の約10倍にも及ぶ160坪の新工場を上目黒に建設。大手洗濯機メーカーの1社に再び返り咲いた。新工場が完成したとき、政治は45歳。従業員は約25名。社名も作業環境もあらたに、従業員とともにさらなる発展躍進を志した。が、その一方で世界の情勢は緊張が高まり、この年、第二次世界大戦が勃発。政治たちが洗濯機械づくりに精を出す真新しい工場の上空には、彼らにさらなる“試練”を与える不穏な影が迫りつつあった。

上目黒に新工場が完成した1939年、ドイツ軍がポーランドに進攻。第二次世界大戦が勃発し、東京洗染機械製作所も軍の仕事で忙しくなった

資料:国立国会図書館蔵
上目黒に新工場が完成した1939年、ドイツ軍がポーランドに進攻。第二次世界大戦が勃発し、東京洗染機械製作所も軍の仕事で忙しくなった

1945

昭和20年

空襲により東京洗染機械製作所が全焼。

敗戦の“どん底”からの、再チャンレンジ。

1945年4月。アメリカ軍による空爆で、政治の約20年間の努力と苦労の“結晶”ともいうべき東京洗染機械製作所は、一瞬にして灰となった。政治はやむなく疎開し、故郷・山梨で終戦を迎えた。日本の惨たんたる敗戦。それでも、政治の情熱は、燃え尽きてはいなかった。「俺が“天職”と決めた洗濯業界を何としても復興させねばならない。よし、また1から再出発だ」。政治は工場建設に必要な木材を集めると、1946(昭和21)年に上京。上目黒の焼け野原に、当時では東京市(現在の東京23区に相当)で最大となる100坪の工場を建設した。なお、当時はすでに連合軍が日本に駐留しており、その後方機関としてもたらされた映画館やクラブ、ボーリング場などの施設は、アメリカの物質文明の豊かさを日本人に見せつけているかのようだった。洗濯機械においてもそれは同様で、政治の上京と時を同じく、東京・築地に目を見張るほどの設備を備えた米駐留軍のQM(クォーターマスター:補給部隊)の巨大ランドリー工場が開業。「あんなものは贅沢品だ」。そんな世評をよそに、政治のなかに流れる技術者の血は、ふつふつと燃え上がっていた。総面積3890坪。アメリカ製の最新鋭洗濯機機が稼働するQMランドリー工場に響く音は、東京洗染機械製作所の快進撃の始まりを告げる号砲のようでもあった。

1949

昭和24年

株式組織に改め、株式会社東京洗染機械製作所となり、代表取締役に三科政治が就任。

至誠貫徹。
名実ともに業界のトップメーカーへ。

いち早くアメリカ製の最新鋭洗濯機械の研究に着手した東京洗染機械製作所は、バキュームスチル、プレッシャーフィルター、Yシャツプレスなど新製品をつぎつぎと発表。ST型シーツロールを発明した際は1日も早く入手するためにユーザーが本社に押し寄せ、また、パークレンドライ機の開発により、それまで石油系ドライひとつだけだったドライ業界に大変革をもたらした。その後も政治は、自社の技術設計陣らとともに破竹の勢いで新製品を開発。東京洗染機械製作所を名実ともに業界のトップメーカーへと成長させた。さらに政治は、自らの手で図面をひき、自らハンマーをにぎって生み出した東京洗染機械製作所の“極秘情報”ともいうべき洗濯機械の設計図を業界に公開。業界そのものの発展にも寄与した。「自分の好きな数学や物理という武器を駆使して、後世の人のために道をひらく」――。たとえ工場が閉鎖に追い込まれようと、焼き尽くされようと、会社が大きくなろうと、肩書きが変わろうと・・・。“洗濯機械”という言葉を初めて目にしたときに自らに誓った「至誠」を、政治は生涯、貫き通した。

政治の自宅の敷地内で製品づくりに励むスタッフたち(1960年頃)

政治の自宅の敷地内で製品づくりに励むスタッフたち(1960年頃)

1966

昭和41年

三科政治が取締役会長に就任し、三科健次郎が代表取締役に就任。

1968

昭和43年

三科政治が勲五等双光旭日章を叙勲。

「業界の育ての親」。
クリーニング機械業界初の栄誉。

1968年4月、政治は、産業や文化の振興・発展への寄与をはじめ社会のさまざまな分野において功績を残した者に授与される勲五等双光旭日章叙勲の栄に輝いた。これはクリーニング機械業界においては初の栄誉であり、池袋の東方会館(2003年12月に閉館)で開かれた叙勲祝賀会には多数の業界関係者が参加。「三科政治さんは、業界の育ての親であります」「三科さんがひらいた道が、そのままクリーニング機械業界、ひいてはクリーニング業界の道になった。われわれは、三科さんのひらいた道をたどりながら今日まで歩いてきたといっても過言ではない」などといった賛辞の言葉が政治に贈られた。そして叙勲式では、天皇陛下から「余生を後輩のために尽くせよ」とのお言葉を贈られ、政治は感涙にむせんだという。なお、政治は社長の職を息子に譲って第一線から退いたあとも、息子たちとたまに旅行に出かけると、行った先々の土地でクリーニング工場に顔を出した。息子たちと一緒に機械の調子を見てまわり、簡単に直せるようならその場で直す。部品が必要であれば工場から送らせるなど、技術者としてのあるべき姿を自らの“生き様”をもって後輩たちに示し続けた。「至誠は生活の基調なり」――。業界稀有の傑物・三科政治の情熱は、東京洗染機械製作所のバトンとともに、親から息子へ、創業者から後継者へと受け継がれていく。

政治が勲五等双光旭日章叙勲の際に授与された賞状と勲章

政治が勲五等双光旭日章叙勲の際に授与された賞状と勲章

昭和43年

アメリカのペルラン・ミルナー社と技術提携。

業界が双手を挙げて賛同。
世界を結んだTOSEN。

政治の“情熱”と“挑戦”が日本の業務用洗濯機械の新しい道を切りひらいたことは紛れもない事実だが、一方で、欧米に比べると日本の業務用洗濯機械はまだまだ遅れをとっていたこともまた事実であった。「世界の優秀な機械を、何とか安く日本に紹介できないものか」。そんな思いから、三科健次郎が社長に就任して以降の東京洗染機械製作所は、世界の優秀企業との技術提携に着手。まずはアメリカのミルナー社と技術提携し、一度に数百キロもの洗濯物を洗濯から脱水まで完全自動で処理できる夢のような機械を日本にもたらした。さらに、翌1969(昭和44)年には“世界のドライクリーナーの双璧”と呼ばれるイギリスのネイル・アンド・スペンサー社との技術提携を実現し、1970(昭和45)年にはイギリスのマンラブ・タリス社との技術提携により「東洗マンラブシーツロール」を製造。従来のロールの概念を打ち破った。その後も、東京洗染機械製作所は世界中の優良企業との関係をつぎつぎと築いていく。そして、この技術提携政策は業界に双手を挙げて賛同された。その当時に発行された『にっぽんクリーニング界のトップたち』(太陽出版社/1973年)という本のなかには、こんな記述がある。「(東京洗染機械製作所の)技術提携政策をどう評価したら良いだろうか。少なくとも欧米と比べて10年は遅れているといわれていた日本のクリーニング業界を、わずか2〜3年で欧米並みにまで引きあげたという点であろう。さらに生産性の向上、省力化、品質向上、経済性の向上という点でも、大いに評価することができよう。(中略)東京洗染機械製作所は業界の発展に多大な影響を与え、今日も機械メーカーのトップとして活躍を続けている」――。

技術提携の調印を終え握手を交わす三科健次郎とミルナー社長(写真上)

海外を強く意識した、健次郎が社長時代の東京洗染機械製作所の会社案内と入社案内(写真下)

技術提携の調印を終え握手を交わす三科健次郎とミルナー社長(写真上)
海外を強く意識した、健次郎が社長時代の東京洗染機械製作所の会社案内と入社案内(写真下)

1995

平成7年

山梨の新工場が操業を開始。

原点回帰。TOSENが創業者の故郷へ“凱旋”。

1995年。東京洗染機械製作所は、ホームクリーニング関連機器の生産を主としていた多摩川工場(1961年操業開始)とリネンサプライ関連の大型ランドリー機器の生産を主としていた相模原工場(1975年操業開始)の2工場を結合し、新たな工場を建設。その拠点に選ばれたのが、創業者・三科政治の故郷である山梨だった。約100年前の1894(明治27)年にこの地に生を受け、この地で数学や物理の面白さを知って「工業の道で身を立てたい」と夢を抱き、生涯、洗濯機械づくりに挑み続けた政治。その情熱は、新鋭の設備を備えた総面積13000坪の“モノづくりの場”という姿で原点・山梨に回帰した。政治がこの工場をその目で見ることは叶わなかったが、政治のモノづくり精神をその目に宿した次代の技術者たちによって、この場所から、東京洗染機械製作所のあらたな歴史が築かれていく。

現在の山梨工場

現在の山梨工場

1999

平成11年

三科健次郎が取締役会長に就任し、三科隆が代表取締役に就任。

2002

平成14年

三科健次郎が勲四等瑞宝章を受賞。

受け継がれし「至誠」の賜物。
2代にわたる栄誉。

三科健次郎は、海外との技術提携によって日本のクリーニング業界を欧米並みに引きあげただけでなく、一般社団法人日本産業機械工業会(各種産業機械のメーカーによる団体)の業務用洗濯機部門の初代部会長を20年以上にわたって務め、業界のさらなる発展の土台を築き上げた。さらに、東京洗染機械製作所2代目社長として環境とユーザーに配慮した製品づくりに注力し、1993(平成5)年に科学技術庁長官賞、1998(平成10)年には通商産業大臣表彰を受賞。このような功績が評価され、2002年5月、国や地方公共団体の公務および公共的な業務に長年にわたり従事して功労を積み重ねた者に授与される勲四等瑞宝章を叙勲した。親子2代にわたっての叙勲は、クリーニング機械メーカーとしては初の栄誉だった。創業者として世界に“挑んだ”のが政治であるなら、後継者として世界を“結んだ”のが健次郎である。先駆者と開拓者。立場や手法は違えど、思いは同じ。政治から受け継いだ健次郎の「至誠」は、業界の発展に、さらには国民生活の向上に大いに寄与した。

東京洗染機械製作所ラグビー部『クリーンファイターズ』の試合を観戦し選手を激励する晩年の健次

東京洗染機械製作所ラグビー部『クリーンファイターズ』の試合を観戦し選手を激励する晩年の健次郎

2007

平成19年

東京洗染機械製作所の製品が第27回優秀省エネルギー機器表彰制度にて、
社団法人日本機械工業連合会会長賞を受賞。

2012

平成24年

東京洗染機械製作所の製品が平成27年度優秀省エネルギー機器として
社団法人日本機械工業連合会会長賞を受賞。

2016

平成28年

バブルやリーマンショックを乗り越え次世代にバトンをつないだ三科隆が
取締役会長に就任し、三科道利が代表取締役に就任。

世界を背負うTOSENへ。
飽くなき挑戦は、続いていく。

自社製品の排熱回収乾燥機(POT-100W)と高通気性カレンダーロール仕上げ機(DAX-R)が、優れた省エネルギー機器として表彰。連続洗濯機の廃熱利用法をはじめとした数々の特許技術の開発・・・。21世紀に入ってからも、東京洗染機械製作所はその情熱と技術力を駆使して、社会やユーザーのニーズをいち早く製品に反映し続けている。さらに、コンベアシステム・バッグシステムの内製化や、ユーザーが実機を使って製品の性能を確認できるラボセンターの開設、もともと定評のあるメンテナンスの充実・強化など、業務用洗濯機械メーカーが提供できるソリューションやサービスの領域を拡大。海の向こうでも製品が稼働しはじめるなど、“世界を背負うTOSEN”としての歩みを着実に進めている。そんな東京洗染機械製作所の歩みを支えているもの。それは、日々現場で汗を流しているスタッフひとり一人の挑戦に他ならない。「技術力で、後世の人のために道をひらく」――。約100年前、ひとりの技術者を突き動かした「至誠」と「チャレンジ精神」は、シンボルでもある“ギアマーク”とともに、これまでも、そして、これからも、東京洗染機械製作所に脈々と受け継がれていく。

かつての社員

現在の写真

かつての社員(写真上)と現在の写真(写真下)の仕事風景。時代は変われど、モノ作りへの情熱は変わらない

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